人生の傍観者になるな『Free Guy』
ゲームの中のモブ(背景)キャラであるGUYが主人公のこの映画。
ゲームの中と現実世界が交互に描かれていて、状況を理解するまでは頭が混乱するけれど、
分かると一気に「そういうことか…」と納得する。
日本版のポスターにあったキャッチコピーは
主人公(ヒーロー)になりたい、すべてのただの人(フリーガイ)へ。
GUYは名前からしても、本当に''ただの人''。
特徴がなく、いわゆるどこにでもいるような。
ゲームのキャラなので決められた行動しかしないのだけど、あることをキッカケに感情を持ち始めて、人生を創造していこうとする。
わたしが一番心に残ったのが
「自分の人生の傍観者になる必要はない」
というセリフ。
ずっと決められたルーティンを繰り返す毎日だったモブキャラたち。
その規則を破り、自由に生きていくことに対して戸惑っていた彼らへGUYが放った言葉なのだけど、当たり前のようで深いなぁと感じた。
傍観者というのは、
その物事に関係のない立場(当事者ではないという立場)や態度で見ている人物
という意味。
''自分の人生の傍観者"という言葉の意味を改めて考えてみると、かなり矛盾しているよね。
自分の人生なのに、自分とは関係ない立場にいるというのは、言い換えると流れに身を任せて適当に毎日を過ごしていることになるのかもしれない。
客観的に、自分の人生を傍観している人を見かけたら
「めちゃくちゃ勿体ない!」
「自分の好きなことをしな!」
「敷かれたルートを辿らなくてもいいよ!」
と声をかけたい衝動に駆られるけれども、
わたしも含め、かなり多くの人は傍観者になってしまっているはずだ。
傍観するというのはつまり丁寧に生きないということであって、
他人には''よりよい道を歩いてほしい''と願うのに、自分のことを投げやりにしてしまうのは、何とも言い難い勿体なさを感じる。
自分のすべてを知っているのは自分だから、最終的な自分の味方も、自分だけなんだろうし。
キャッチコピーにあるように、この映画はただの人から主人公になりたい人へのメッセージが詰められているけど、
結局GUYは自分の世界であるゲームの主人公にはならない。
彼がなったのは世界を救うヒーローではなく、
''自分の人生''の主人公だった。
誰もが最初から人生の主人公だけれど、多くの場合その事に気付いていない。
もしくは気付いていながらその立場を利用しようとする人は少ない。
毎日の決められたルーティンがなくなり、これから何をすればいいのかと親友に聞かれた際、
彼はこう答える。
「好きなことをするんだ」
GUYの顔は、前半の同じ毎日を過ごしていた彼とは別人のように明るかった。
華々しい世界で生きている芸能人も、
その努力と実力によってスポットライトを浴びるスポーツ選手も、
私たち一般人からすれば特別に見えるけれど、本当は誰もが''フリーガイ''なのかもしれない。
好きを突き詰めてたどり着いた世界が、たまたま注目を浴びる場所だっただけ。
誰も、自分が思うよりずっと自由なんだと思う。
どこに行っても、何を食べてもいい。
でも、目に見えない恐怖や世間体、面倒臭さとかに負けてほとんどの人は人生の傍観者になってしまっているんだと思う。
どうせいつか死ぬから。
今いる人、全員いつかいなくなるから。
好きな所に行って好きな物を食べて、自分がずっと楽しいと思える毎日を生きていたいね。