現実を生きる父親と、理想を生きたい私
「やりたくないことを1日に必ず一個しなさい」
嫌いなものを食べたくないと駄々をこねていた私に向かって父がそう言ったのは、私が幼稚園の頃だった。
特別な日でもない日常の会話なんてほとんど忘れてしまったけれど、その言葉だけは今でも鮮明に覚えている。
「お父さんはやりたくないことしてるの?」と質問した私に父はこう答えた。
「毎日会社に行ってるよ」
当時、家で父親と会うことは滅多になかった。いつも私が寝た後に帰り、起きる前に会社に行くという生活だったから。
転勤族で単身赴任が多かったこともあり、小さい頃の父親と過ごした記憶はほとんどない。
母が専業主婦で、当時の私は社会で働く人間を父親しか知らなかったから、大人はみんなこういう生活をしているんだと思っていた。
だからなのか、その反動なのか、私は幼稚園児という将来に何の不安もないような時期から、大人になることを必要以上に怯えていた気がする。
そんな私もあれから15年ほどの月日をのらりくらりと生きてきた。
どうしようもないことや、辛いこと苦しいことも、それなりに乗り越えた。
嫌だと思うことを一日に一個では足りないくらいしたこともあった。
嫌いなものを食べたり、苦手な人と喋ったり、行きたくない習い事へ行ったり、憂鬱な転校を二回したり、大変な受験も、死にたくなるような恋愛も、全て向き合った。
私はもう、幼稚園児じゃなかったから。
高校生の時、友達が言った何気ない一言が今でも心に残ってる。
「大人になったら、もう子供じゃないって言われるんだろうね」
ああ、そうか。と思った。
大人というのは、もう子供じゃないって意味なのか。
成人した今でも、私は大人になりたくないと強く望んでいる。
法律的には大人であり、犯罪を犯せば名前が報道され、お酒も飲めるし選挙にも参加できる。
自分でできることが増えた分、責任も負っていて、誰かに守られる存在の子供ではない。
(私はまだ実家暮らしで、親に甘やかされてる子供だ、と自覚しているけれど笑)
この前、父がぽつりと言っていた。
「お父さんの仕事は、人が嫌だと思うことをすることなんだよ」
あれから10数年経っても嫌なことを嫌だと思う私は変わってない。
そして、
父も変わっていなかった。
私は、やりたくないと思ったことは否が応でも避けたいと思う人間だ。
父を否定するつもりはないし、仕事を責任持って取り組む姿勢は素晴らしいと思う。
家族を、そして自分を守り養うためにお金を稼ぐ。そのためにやりたくないこともする。ストレスも我慢する。仕方ないことはある。
大人だから。仕事だから。
それが嫌だ、と望んでしまうのは、わがままなことなんだろうか。
嫌なことをするのは、自分の好きなことをするためだけにしたい。
人生の大半を占める仕事の時間を楽しく過ごしたい。
映画『花束みたいな恋をした』の劇中に、こんなセリフがある。
「私はやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」
客観的に見れば、とんでもなくわがままで自己中でいつまでもお子様気分だと思われるのかもしれない。
父が見たら、「現実を見てないな〜」と苦笑するかもしれない。
だけど。
ちゃんと楽しく生きたい。
絹の心からの叫びに、私はハッとした。
この“ちゃんと”という部分に感銘を受けた。
ちゃんと楽しく、かぁ。
いつか死ぬ。どうせ死ぬ。必ず。
泣いてる人も笑ってる人も、今という時間は平等に流れている。
それなら楽しく生きたい。幸せに生きていたい。
ちゃんと笑っていたい。
現実を生きる父も、理想を追う私も、答えなんかなくて、きっとどちらの選択も素晴らしいはずで、尊重されるべきだと信じたい。
私は父が仕事にかける本当の想いを知らない。聞く気はないし、父も話す気はないだろう。
もしかしたら仕事をとても愛しているかもしれないし、ただ辛いものだと感じているかもしれない。
血のつながりがあっても、同じ家に住んでいても、毎日顔を合わせていても、私は父のことを何も知らない。
よく考えると不思議な話だ。
生まれてからずっと知っている人間で、どの大人よりも近い関係性なはずなのに、
実家のことや両親のこと、過去の話、どんな人と出会い、今までどんな人生だったのか、私は知らない。
でも、きっとそれは父も同じだろう。
娘が毎日一体何を考え、何を感じ、どんな風に生きているのかなんて、きっと想像すらしていないだろう。そして想像しても分からないはず。
私たちは家族だけれど、違う人間だから。
''やりたくないことを1日に必ず一個する''
いつからかその約束を忘れていた私だけれど、私の人生をちゃんと楽しく生きようと思う。
誰が何と言おうと、自分がいいと思う道で、
自分を愛してあげよう、幸せにしてあげようと思う。
こんな想いも、いつか馬鹿馬鹿しいな、と感じる日がくるのかもしれないけれど。
大人になるということはどういうことなのか、一生をかけて考えてみるのもいいかもしれない。
どんなに歳を重ねても、自分を愛することはやめないでいよう。
そんなことを、誰に見られるわけでもない
このブログに宣言する。