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生きている中で私を救ってくれた本や人や言葉について、何気なく書いていくブログです。

人は誰しも孤独だが、独りではない。/『かがみの孤城』

 

主人公のこころは、学校の一軍女子である真田さんとのある一件で学校に行けなくなってしまった。

朝になるとお腹が痛くなり、どうしても行けない。

母親にも上手く伝えられず、自分を責めたり、真田さんを憎んだり、いわゆるマイナス感情で溢れた毎日を繰り返し送る日々。

 

そんなある日、部屋の鏡が光って

 

 

とまあ、簡単にまとめるとあらすじはこんな感じ。

 

 

 

読了後、最初に思ったのは「すごい本を読んでしまった」ということ。

 

何がすごいって、伏線を全て回収するところ。

アキやオオカミさまの正体にはそりゃ驚いたけれど、私的にはスバルが将来の夢を決めた場面で鳥肌がたった。

そこも回収するのか

開いた口が塞がらないとはこういうことなのね、と。

 

 

もちろんファンタジーなお話なので、

現実にはあり得ないことばかりだけど、この7人、いや、オオカミさまも含め8人を見ていると、

なんでもできる気がしてくる。

 

彼らはそれぞれの事情を抱えていて、でも「学校に行きたくない」という根本的な想いは一緒。

 

 

私が中学生だったのはもう何年も前のことだけど、

そういう気持ちを抱えていた時期があったのは鮮明に覚えている。

 

今となってはあんな狭い人間関係で、視野の狭い子ども達は悩みながらもよく生きているなあ、なんて思う。

 

当時の私には、教室や部活の人間関係が全てだった。

もしそれらの関係の一箇所にでも亀裂が入ったりしたら...?と

いつだって人生が終わってしまうかのような恐怖と不安に襲われていた。

 

それは今の中学生にとっても変わらないだろうし、高校生や小学生、または社会人にも言えるだろう。

 

 

 

私は中学生の頃、親の仕事の都合で二回転校した事がある。

その関係もあって、人間関係に悩んでいたのはあの頃がピークだった。

ただでさえ多感な時期に、世界の全てと言っても過言ではない学校の環境が多く変わるのは辛かった。

これ以上の苦しみや絶望はないのではないかと本気で思っていたし、「死にたい」とも考えた。

 

でもそんな勇気があるはずもなく、何となくそのまま生きてきて、今に至るわけだけど。

 

あの時の経験があってよかったと言えるだろうか..。

正直、戻れるとしても絶対に同じ経験はしたくない(笑)

 

でも今はこうやって穏やかに思い返せるようになったし、そこで出会えた友達も、一応素敵な思い出もある。

そしてとんでもなく普遍的で大した刺激のない人生を送っている私にとっては珍しく鮮明に残っている記憶だから、

そう考えるとよかったかもしれない。

 

 

 

話が逸れてしまったので本題に戻そう。

 

 

 

主人公はこころなので、他の6人がかがみの孤城を見つけるまでの日々や、詳しい経緯、城が開いてない間のこと、そして城が閉じた後のことを私たちは知ることができない。

 

 

「こういうことをしようと思う」

「頑張って学校に行ってみる」

「何とか現実世界でも頑張ろう」

 

 

そう誓い合ったけれど、実際どんな人生を送ったのか、送るのか、分からない。

 

 

それに、そもそも同じ世界に自分と同じような悩みを抱えた人間がいるのだと知り、時間を共有し、励まし合っただけ。

城が閉じて帰った後、結局7人の現実世界は何も変わっていないのだ。

それにも関わらず、世界は大きく変わっている。

 

 

何故なのか?

 

それは、

全員が意を決してコンフォートゾーンから勇気を出して一歩踏み出したから。

 

 

城は現実世界を勝手に変えてくれるような優しい場所ではなかったし、互いの存在もリアルには助け合えなかった。

そして記憶も消されてしまった。(リオンを除き、現実世界に帰った後のアキやこころの描写から見て完全に忘れたわけではないが、鮮明に覚えていないことは明らかだ)

 

 

 

学校に行き場のない彼ら。アキのように家にも居場所がなかったメンバーもいるだろうし、

彼らにとって城は自分を認めてくれて共感してくれる、居心地の良い場所だったはず。

 

城は330日で強制的に閉まるため彼らの意思ではないけれど

学校に行く決意をしたこころや、母親に日本に帰りたいと告白したリオンは

そのままでいたら楽なはずなのに、少しでも環境を変えるために自ら動いたのだ。

 

 

結局、人間は孤独なんだと思う。

こころの母親のように、自分のために何かをしてくれる人がいても

自分がその気にならなければ何も変わりはしない。

 

全く同じ人生を生きている人は一人もいないし、

どんなに仲のいい恋人や親友、血縁関係のある家族でも全ての時間を共有しているわけではない。

 

 

生まれてから最期の瞬間まで、どんな時も一緒に生きていけるのはもう一人の自分だけ。

 

 

それでも私たちは生きていく中で必ず誰かの力を借りざるをえない。

 

孤独であるし、自分の最後の味方は自分しかいないが、私たちは決して独りではないのだ。

 

 

昔、こんな言葉を目にしたことがある。

 

一人ぼっちの時間が辛いと思うのは、一人じゃない時間があったから。

一人じゃなかった時にそばにいてくれた人のことを大事にすることがどれだけ大切か。

それを知ることができるのが一人ぼっちの時間。

 

 

 

短い人生の中で少なからず自分に時間を使ったり感情を動かしてくれる人というのは、よく考えるととても貴重だ。

 

 

学校を卒業しても会ってくれたり、

しばらく連絡を取ってなかったのに連絡をくれたり、

そんな人たちを大切にすること。

 

 

SNSで簡単に繋がれる時代で外出もなかなか難しくはあるけれど、

だからこそ直接会える機会や時間を作っていくべきなんだと思う。

 

 

 

 

私も、これから学生時代の友人をちゃんと大切にしようと心に決めた。

 

そしていつまでもコンフォートゾーンにしがみつくことなく、こころ達のように勇気を出して生きてみよう。

 

罪の裏側に目を向けられる人でありたい『流浪の月』

凪良ゆうの『流浪の月』を読んだ。

"第17回本屋大賞受賞"という帯に釣られて購入。

 

 

読了後、まず思ったのは

 

「相手のため」ってなんだろう?

ということ。

普段全くそんなことを考えていない私でも、考えさせられる作品だった。

 

 

まずタイトルでもある「流浪」とは、

当てもなくさまようこと。所定めず、さすらい歩くこと。

らしい。

 

 

人は一人ではいきていけない。

家族、親戚、友人、恋人、仲間。

きっと誰もが大切に思う誰かがいて、

残酷で痛ましい事件が起きれば。

被害者を身近な誰かに当てはめて心を痛める。

 

テレビや新聞で報道される事柄が全てではない。

そんなことは誰もが気付いているはずなのに

忘れてしまっている。

 

「偽善者」という言葉はよく聞くけれど、

実際に自分もその立場になっていることが

多いのかもしれない。

 

悪いことをした時、

犯罪を犯した時、

道を踏み外した時。

 

家族なら、親戚なら、友人なら、恋人なら、仲間なら。

自分の大切な人だったら...どうする?

 

他人なら批判するだけで済むことも

大切な相手になると話は変わるんだよね、きっと。

 

好きとか嫌いという概念を超えた次元の大切な人が間違いを犯したら。

 

 

自分にしか分からない気持ち、

その周りの人しか知らない事実、

決して世間に出ていることだけが

真実ではないし、

きっと多くの人が勘違いをされたまま

生きているんだろうと思う。

 

 

「罪を憎んで人を憎まず」

とは、よく言ったものだなと。

 

罪を犯してしまった人間だとしても、

それがその人の全てではないし、

自分も知らないうちに

そんな人に救われているのかもしれない。

 

 

自分が余裕のない時も、そういう裏側のことを想像できる人でありたいと思った。

 

 

そんな人が増えれば、理不尽に傷つくことなく生きていける人も増えるはずだから。

人生の傍観者になるな『Free Guy』

 

ゲームの中のモブ(背景)キャラであるGUYが主人公のこの映画。


ゲームの中と現実世界が交互に描かれていて、状況を理解するまでは頭が混乱するけれど、

分かると一気に「そういうことか…」と納得する。

 


日本版のポスターにあったキャッチコピーは

 

主人公(ヒーロー)になりたい、すべてのただの人(フリーガイ)へ。

 


GUYは名前からしても、本当に''ただの人''。

特徴がなく、いわゆるどこにでもいるような。

 

ゲームのキャラなので決められた行動しかしないのだけど、あることをキッカケに感情を持ち始めて、人生を創造していこうとする。

 

 

わたしが一番心に残ったのが

「自分の人生の傍観者になる必要はない」

というセリフ。

 


ずっと決められたルーティンを繰り返す毎日だったモブキャラたち。

その規則を破り、自由に生きていくことに対して戸惑っていた彼らへGUYが放った言葉なのだけど、当たり前のようで深いなぁと感じた。

 

 

 

傍観者というのは、

その物事に関係のない立場(当事者ではないという立場)や態度で見ている人物

という意味。

 

 


''自分の人生の傍観者"という言葉の意味を改めて考えてみると、かなり矛盾しているよね。


自分の人生なのに、自分とは関係ない立場にいるというのは、言い換えると流れに身を任せて適当に毎日を過ごしていることになるのかもしれない。

 

客観的に、自分の人生を傍観している人を見かけたら

「めちゃくちゃ勿体ない!」

「自分の好きなことをしな!」

「敷かれたルートを辿らなくてもいいよ!」


と声をかけたい衝動に駆られるけれども、

わたしも含め、かなり多くの人は傍観者になってしまっているはずだ。

 

傍観するというのはつまり丁寧に生きないということであって、

他人には''よりよい道を歩いてほしい''と願うのに、自分のことを投げやりにしてしまうのは、何とも言い難い勿体なさを感じる。

 

自分のすべてを知っているのは自分だから、最終的な自分の味方も、自分だけなんだろうし。

 


キャッチコピーにあるように、この映画はただの人から主人公になりたい人へのメッセージが詰められているけど、

結局GUYは自分の世界であるゲームの主人公にはならない。

 

彼がなったのは世界を救うヒーローではなく、

''自分の人生''の主人公だった。

 

 

誰もが最初から人生の主人公だけれど、多くの場合その事に気付いていない。

もしくは気付いていながらその立場を利用しようとする人は少ない。

 

 

毎日の決められたルーティンがなくなり、これから何をすればいいのかと親友に聞かれた際、

彼はこう答える。

 

「好きなことをするんだ」

 

GUYの顔は、前半の同じ毎日を過ごしていた彼とは別人のように明るかった。

 

 

 

 


華々しい世界で生きている芸能人も、

その努力と実力によってスポットライトを浴びるスポーツ選手も、

私たち一般人からすれば特別に見えるけれど、本当は誰もが''フリーガイ''なのかもしれない。


好きを突き詰めてたどり着いた世界が、たまたま注目を浴びる場所だっただけ。


誰も、自分が思うよりずっと自由なんだと思う。

どこに行っても、何を食べてもいい。

でも、目に見えない恐怖や世間体、面倒臭さとかに負けてほとんどの人は人生の傍観者になってしまっているんだと思う。

 


どうせいつか死ぬから。

今いる人、全員いつかいなくなるから。

 

好きな所に行って好きな物を食べて、自分がずっと楽しいと思える毎日を生きていたいね。

 

現実を生きる父親と、理想を生きたい私

 

 

「やりたくないことを1日に必ず一個しなさい」

 

嫌いなものを食べたくないと駄々をこねていた私に向かって父がそう言ったのは、私が幼稚園の頃だった。

 

特別な日でもない日常の会話なんてほとんど忘れてしまったけれど、その言葉だけは今でも鮮明に覚えている。

 


「お父さんはやりたくないことしてるの?」と質問した私に父はこう答えた。

 

 


「毎日会社に行ってるよ」

 

 

 

 

 


当時、家で父親と会うことは滅多になかった。いつも私が寝た後に帰り、起きる前に会社に行くという生活だったから。

 

転勤族で単身赴任が多かったこともあり、小さい頃の父親と過ごした記憶はほとんどない。

 

母が専業主婦で、当時の私は社会で働く人間を父親しか知らなかったから、大人はみんなこういう生活をしているんだと思っていた。


だからなのか、その反動なのか、私は幼稚園児という将来に何の不安もないような時期から、大人になることを必要以上に怯えていた気がする。

 

そんな私もあれから15年ほどの月日をのらりくらりと生きてきた。

どうしようもないことや、辛いこと苦しいことも、それなりに乗り越えた。


嫌だと思うことを一日に一個では足りないくらいしたこともあった。

嫌いなものを食べたり、苦手な人と喋ったり、行きたくない習い事へ行ったり、憂鬱な転校を二回したり、大変な受験も、死にたくなるような恋愛も、全て向き合った。

 

 

私はもう、幼稚園児じゃなかったから。

 

 

高校生の時、友達が言った何気ない一言が今でも心に残ってる。

 

「大人になったら、もう子供じゃないって言われるんだろうね」

 

 

ああ、そうか。と思った。

大人というのは、もう子供じゃないって意味なのか。

 


成人した今でも、私は大人になりたくないと強く望んでいる。

 

法律的には大人であり、犯罪を犯せば名前が報道され、お酒も飲めるし選挙にも参加できる。

自分でできることが増えた分、責任も負っていて、誰かに守られる存在の子供ではない。


(私はまだ実家暮らしで、親に甘やかされてる子供だ、と自覚しているけれど笑)

 

 

 

 

この前、父がぽつりと言っていた。

 

「お父さんの仕事は、人が嫌だと思うことをすることなんだよ」

 

 

あれから10数年経っても嫌なことを嫌だと思う私は変わってない。

 

そして、

 

 

父も変わっていなかった。

 

 


私は、やりたくないと思ったことは否が応でも避けたいと思う人間だ。

 

父を否定するつもりはないし、仕事を責任持って取り組む姿勢は素晴らしいと思う。


家族を、そして自分を守り養うためにお金を稼ぐ。そのためにやりたくないこともする。ストレスも我慢する。仕方ないことはある。

 


大人だから。仕事だから。

 

 

それが嫌だ、と望んでしまうのは、わがままなことなんだろうか。

 


嫌なことをするのは、自分の好きなことをするためだけにしたい。

人生の大半を占める仕事の時間を楽しく過ごしたい。

 

 

映画『花束みたいな恋をした』の劇中に、こんなセリフがある。

 

 

 

「私はやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」

 

 

 

 


客観的に見れば、とんでもなくわがままで自己中でいつまでもお子様気分だと思われるのかもしれない。

 

父が見たら、「現実を見てないな〜」と苦笑するかもしれない。

 

 

 

だけど。

 

 

 

 

 

ちゃんと楽しく生きたい。

 

 

 

絹の心からの叫びに、私はハッとした。

この“ちゃんと”という部分に感銘を受けた。

 

ちゃんと楽しく、かぁ。

 

 

 

いつか死ぬ。どうせ死ぬ。必ず。


泣いてる人も笑ってる人も、今という時間は平等に流れている。

それなら楽しく生きたい。幸せに生きていたい。

ちゃんと笑っていたい。

 

 


現実を生きる父も、理想を追う私も、答えなんかなくて、きっとどちらの選択も素晴らしいはずで、尊重されるべきだと信じたい。


私は父が仕事にかける本当の想いを知らない。聞く気はないし、父も話す気はないだろう。


もしかしたら仕事をとても愛しているかもしれないし、ただ辛いものだと感じているかもしれない。


血のつながりがあっても、同じ家に住んでいても、毎日顔を合わせていても、私は父のことを何も知らない。

 

よく考えると不思議な話だ。

 

生まれてからずっと知っている人間で、どの大人よりも近い関係性なはずなのに、

実家のことや両親のこと、過去の話、どんな人と出会い、今までどんな人生だったのか、私は知らない。

 

でも、きっとそれは父も同じだろう。

娘が毎日一体何を考え、何を感じ、どんな風に生きているのかなんて、きっと想像すらしていないだろう。そして想像しても分からないはず。

 

私たちは家族だけれど、違う人間だから。

 

 

 

''やりたくないことを1日に必ず一個する''


いつからかその約束を忘れていた私だけれど、私の人生をちゃんと楽しく生きようと思う。


誰が何と言おうと、自分がいいと思う道で、

自分を愛してあげよう、幸せにしてあげようと思う。

 

こんな想いも、いつか馬鹿馬鹿しいな、と感じる日がくるのかもしれないけれど。

 

 

大人になるということはどういうことなのか、一生をかけて考えてみるのもいいかもしれない。

どんなに歳を重ねても、自分を愛することはやめないでいよう。

 


そんなことを、誰に見られるわけでもない

このブログに宣言する。